江戸から新しい首都を生み出すのは誰?

     

日本の中心京都でしたが・・・今は東京。

江戸時代から日本の中心は東京になりました。

徳川家康は三河の大名で、

今川氏滅亡後東に勢力を伸ばして、東海道一の大大名になりました。

北条氏とは縁戚関係を結び、良好でしたが、

豊臣秀吉の命により小田原攻めに参加し、北条氏を滅ぼします。

これで関東に空白区が出来ましたから、

秀吉としては実力者の家康を三河、駿河といった故郷から引き離し、

敵地である旧北条領に入れて、

勢力を殺ぐことを考え、加増という名目で関東に追い払います。

政治の中心地の大阪から遠ざけ、

家康を関東に押し込めて出れなくする腹だったのでしょう。

普通に考えれば小田原城に行くことが最良です。

なんといっても天下の名城ですし、

北条氏が整備した城下町で、ちょっと手を入れれば、

天下第二の大大名の居城としては十分ですが、

秀吉はその点をよんで、江戸築城を勧めます、

天下人の言うことですから、逆らえば滅ぼされることになります。

江戸は大田道灌が築いた城ですけど、

老朽化した城があるのみで、湿地帯でよい場所ではなかったのですけど、

家康はそれを逆手に取り、江戸湾を埋め立て、新地から城下町を立ち上げます。

関が原の合戦により家康が天下の覇権を握ったとき、

名目的には大阪城に豊臣家が残りますから、

関西に幕府を開けば豊臣恩顧の大名が反発しますから出来ません、

ですからそのまま江戸を幕府にします。

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大阪の陣で豊臣氏が滅んだ跡も大阪は特別な場所として、

徳川一門でここを望んだ大名もいましたが、ついに許されませんでした。

その後は仮想敵国は西国大名ですから、

防衛線が大阪では近すぎるとか、

この時代は温暖期で西国の農業はよくなく、関東以北がよかったとか、

いろいろ理由はあると思いますが、

いまさら営々と築き上げた関東を離れるだけの理由がなくなったと思います。

別に名古屋に幕府を開いても、

この近辺は徳川氏発祥の地の岡崎に近く、

東海道の要衝にあり、清洲から名古屋に城を移して名古屋城を建てたから、

機能的には問題ない、広大な濃尾平野を控え、万一のときは木曽に逃げることも可能。

駿河幕府だってよかったはずです。

あえて名古屋幕府や駿河幕府にしなかったのは、

江戸を捨てる積極的なメリットがなかったと思います。

(1)京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため

(2)幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は

島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、

大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた

(3)戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、

単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた

(4)領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い

これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。

ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは

徳川家にとってやはり大きなリスクだった

などが考えられます。

江戸を中心とした徳川家康。そのワンマンでそれは決まりました。

会議で決めたわけではありません。

今東京から都を移す・・・メリット・デメリットで誰が決めるか誰の為にするか?

私なら「経済の首都」と「政治に首都」を変えたいと思います。

政治の首都は「名古屋あたり」でいいのではないでしょうか?

お伊勢さんも近いですしね(笑)